我家五五|91 × 65 cm|2021|九份藝術館

我家五五|91 × 65 cm|2021|九份藝術館

八角茶屋一隅

八角茶屋一隅

台灣萍蓬草|291 × 218 cm|2018

台灣萍蓬草|291 × 218 cm|2018

水心月茶坊一隅

水心月茶坊一隅

蓮的一生|73 × 91 cm|2016

蓮的一生|73 × 91 cm|2016

洪志勝

九份茶房オーナー │ アーティスト

森の中で道が二つに分かれていた。 そして私は..., 人があまり通っていない道を選んだ。 そのことがどれだけ大きく私の人生を変えたことか。

1989年、洪志勝は九份に住むことを決めた。
「自分の思うがままにやり、じぶんの夢をかなえよう」と。
その時彼は28歳、この山城が創作の拠点となった。

 

水湳洞・基隆山春霧|73 x 61 cm|2010 - 2011

 

基隆山・潮境公園|73 x 61 cm|2011

芸術とは水草を求めて

彼は民国五十年代初めに彰化芬園という田舎に生まれた。小学校で四回、中学校では二回転校し、その後、彰化から台北へ来た。子供の頃から働きながら学校へ通い、若者達が大学を受ける頃、彼は運転免許を受けに行った。彼の中の理性はしっかり生計を立てることが大切だと教え、彼の中の感性は絵を描く方面へと導いた。「大きくなったら・・・」子供の頃の夢はふたつ、ひとつは農夫になること、もうひとつは画家になることだった。彼は農夫にはならなかったが、彼は芸術においても創作とは農夫が水草を求めて歩く牛を引くのと同じであると考えている。

彼の絵描き友達は「洪志勝は左手で金儲け、右手で絵を描くことが出来る」と言うが、彼は二束のわらじは履けないことを知っている。だから彼はいつもある程度経営に専念し、これでよし!と思ったら、全てを投げ出して絵に邁進するのだ。

画家には二種類いる。描かないと死んでしまう人、もう一方は描かないと落ち着かない人。彼の友人は前者、彼は後者にあたる。彼は筆を手に持たないと落ち着かないのだ。絵の具の匂いにまみれていないと落ち着かないのだ。人は彼を芸術家と言うが、彼自身は「自分は絵を仕事にした人、ただの絵描きにすぎない」と思っている。

ひらめきは水草のようなもの、そこに水草が生えているからそこに行くのだ。

ほとんどの仕事は九割の努力と一割の才能があれば出来るが、芸術家は持って生まれた才能が七、八割なければならない。

芸術創作とは農夫が水草を求めて歩く牛を引くのと同じである。ひらめきは水草のようなもの、そこに水草が生えているからそこに行くのだ。洪志勝の芸術創作の道もこれと同じ、絵の具を持ち、画材を持って行きたいところへ行くのだ。時には大陸まで足を伸ばすこともあった。だが、彼はそこでやはり台湾にテーマを置くべきだと思った。台湾を描くことで味わいが生まれ、感情が生まれる。大陸の風景は美しいが、そこには感情が沸かない。桂林の山水画は描いてみるととても平坦だ。また山水画には人間の境地、天国が描いてあるが、我々には遠い存在で、身近な存在ではないのだ。

1979年、洪志勝と九份は出会った。彼は油絵の先生と供に絵を描きに来たのだった。9年後、再びこの地を訪れた。そのときの九份は更にひっそりと静まり返っていた。先生に供だって山の上で絵を描いた。くねくねと続く道、黄昏に明かりが燈る頃、ぼんやりとした明かりに包まれた九份は更に美しかった。しかし家屋はたくさんあるのに人がいない、一体どこに行ったのだろうか??その時はまだ昔ここが黄金の故郷だったとは知る由もなかった。

 

九份・輕便路|65 x 53 cm|1990 - 1996

 

九份・豎崎路|54 x 46 cm|1990 - 1996

 

九份|53 x 65 cm|1990 - 1996

古い屋敷、新しい主人

空き家、老人、子供、猫と犬がいるだけ・・・、でも、景色は変わらず美しかった。彼は道を尋ねた際、ふと一軒の大きなボロ屋敷が目に入った。門前には立派な桜の木があり、奇麗に石を積み上げた壁があり、城塞のような雰囲気さえもっていた。そのボロ屋敷の主人は確か王と言う姓だった。彼はそのボロ屋敷を買った。以来、彼は九份を訪れる客ではなくなり、九份にも二度目の春が訪れた。

九份の老街の終わりにもう一軒の古い屋敷があった。縁あって、ここも若い画家洪志勝の持ち物となった。その古い屋敷は現在では文化庁に文化財として登録された歴史的建造物である。いつ頃建てられたのか詳しいことはわかっていないのだが、九份で最も古い建築物であるらしい。ここは以前、翁山英という人物の民家であり、九份金鉱に携わる坑長の統率本部があったところだとも言われている。後に、水池仙診療所と姿を変え、現在の九份茶房に至る。歴史は正に偶然のつらなり。そしてまた続いてゆくのだ。

先代の芸術家は淡水へ、今日の芸術家は九份へ。

彼は一旦仕事に就き、初めて九份と出会ってから九年後再びこの地を訪れた。そのときの九份は寂しく粛然とたたずんでいた。ひっそりと静まりかえっていて、まるで雲間に浮かぶ天空の城のようにノスタルジックな雰囲気が漂っていた。夕陽が沈み、街灯が灯り、ぼんやりとした明かりに包まれた九份は更に美しかった。そのとき彼はここに住むことを決めたのだった。

絵描き友達は話が弾むと「先代の画家は淡水に絵を描きに行ったものだが、これからの画家は九份に来るべきだよ。」「九份を描いた絵はきっと売れるに違いないさ、だってここは黄金の故郷だからね。」と笑いあった。絵描きが絵を描きに行くところとして、淡水は先輩であり、九份はそれに続く場所となった。先代の画家達は淡水を描かなければ画家と呼べないと言っていたらしいが、これからの画家は九份を描かなければ画家と呼べないらしい。

淡水には老街の歴史があり、港や城砦にも風情がある。また夕陽が沈む風景はとても絵になる。

 

九份・烏勢巷|53 x 46 cm|2004

 

九份基隆山・夏|46 x 53 cm|1990 – 1996

九份、絵を描く者の洗礼地

それに対して九份には鉱山労働者の文化がある。竹蓑(ちりとり)の様な地形をしたここ九份に当時は五万人もの人が住み、汗を流して働いていた。九份は絵を描く者の洗礼地として、また、絵描きが画家になるための登竜門として特別な場所になった。

写真家は九份を撮るのに3日かかるだろう。だが、絵に描くとなると3年でもまだ足りない。何年も住み込んで、土地に溶け込み、人や景色に心を通わせる。そうすることでやっと絵に物語が生まれるのだ。

映画監督、作家、画家、皆こぞって九份をテーマにするのが好きだ。 九份の風景は幾層にもなっていて、遠くもよし近くもよし見る者を飽きさせない、また九份の人物にも個々に物語があり味がある、だから人を惹きつけて止まないのだ。

Writing by Seedesign

九份茶坊
お茶|陶芸品


 

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